ゴーゴー!音々の精進日記!

とりま走ってるって感じの人生をイケてるランニング人生にしていきたいのである

日記に書くことないから来月で20歳が終わる私の愛に対する見解を書くじょー!

愛ってなんなんでしょう
今日知人が、戦前戦後の本を読んだりしていて最近は愛という言葉を使わなくなっているかもしれないと思っていた、でも朝テレビでりゅうちぇるが愛という言葉を使っているのを見て愛の時代がまた来るのかもしれないって思った、と話しており 私はふむ と思いました
英語においてloveという言葉がlikeに比べて本当に尊く重い言葉です
そこまではいかなくとも日本語においても好きという言葉と愛しているという言葉には(辞書上ではなく普段使う際の感覚的な意味で)明確な差があるように感じます
愛している・愛という言葉が好きとは一線を画し、特別で素敵である所以はどこにあるのでしょうか

私は自分と相手の相互関係の上でのみ愛は成り立つ、というところにその理由があるように感じます
好き、という一方的とも捉えられる感情は片想いの相手にもぬいぐるみにもアイドルにも使うことができます
しかしこれらの対象に愛しているという言葉を使うと違和感が拭いきれません

例えるのなら"相手のために何かしてあげることで自分が嬉しくなるから○○をする”というような行動、それに伴う感情が愛なのではないでしょうか
逆に言えば、あなたのことを思っていってるの と言いながら自分の欲望を押し付ける行為は愛とは言えません

相手のことが好きで、相手も自分のことを好いている事実を理解している、その上でそんな相手のために自分が何かをしたいと思う気持ち
その関係だからこそ生まれる信頼関係や安心感、またそれを慈しむ気持ち それが愛なのではないでしょうか
相手の持つ感情の予測がお互い可能でないと愛は生まれません
愛とは単に相手だけではなく、自分という存在との距離感も含めた言葉なのではないでしょうか

戦争前後で愛という言葉が多用されていたのは明日にも終わる可能性のある生活の中で自分の持つ本質に近い感情に日々向き合わなければいけない状況があったからのように思えます
命からがら生きている中であったら愛している人に想いを馳せ、せめて隣に相手がいる今想いを伝えたい、という感情になるのは当たり前でしょう
新自由主義がここまで浸透し、みんなが自分は何者なのという終わることのない問いを追いかけるようになった現代において愛という言葉を当たり前に聞くようになることがあるとは思えません
しかし逆に、こんな個人ばかりが大切にされる時代だからこそ、せめて好きな人との間に生まれる愛を大切にし尊ぶ必要があると思います
自分にばかり比重をおいてしまう環境の中で愛を持つような相手との関係をせめて大切にすることは、人間が一人では生きていけないということを深く知れ、他人を大切にすることを忘れないための社会とつながっていられる最後の鍵なのではないでしょうか

アナログで、めんどくさく、重たい愛というものの存在価値をもう一度確認する必要があります
その先駆者がりゅうちぇるなのかもしれません