ゴーゴー!音々の精進日記!

とりま走ってるって感じの人生をイケてるランニング人生にしていきたいのである

昔の写真を見て大泣きした夜

朝久しぶりにタロットを引いたら法王の逆位置が出た
いけいけゴーゴー期だし、最高なGOODカードを引く気満々でいたので思わず拍子抜け、
簡単にいうと自己中になってる可能性あるから気をつけな、って感じのカード
確かに今自分はノリノリすぎるが故に、突き進もうとしない人を冷ややかな目で見る節が無意識下にあったかもしれない
出勤中に引いたカードの意味を、より自分をいい感じにするためのアドバイスとしてどう理解するか、落とし込め方を考えている間になんだか自然に元気が出た
少し長いが、昨晩読んだ植島啓司岡崎京子との往復通信を引用したい

べつに神様なんかいなくたっていいんじゃないの、というのがぼくの立場だけれど、いてもまた困りはしないよね。興味のない人にはどっちだっていいんだと思う。ただ、ぼくは宗教学者だから、ちょっとニュアンスは違うかな。ぼくらの周囲にはさまざまなことが次々と起こる。事柄そのものは無色でニュートラルなものなんだけれど、それを見る人間次第でいろいろと意味が違ってくる。たとえば、死、病気、災難、喧嘩、別離などは、すべての人に起こることだけれど、運命と思ったら運命、不幸と思ったら不幸なのね。かつてはよく老衰とか寿命という言葉が使われたでしょう。ホントいい言葉だよね。今では医者がなんとか死因を捜し出して命名してしまう。 すい臓がんとか、心筋こうそくとか、ね。名前をつけた瞬間から、それは病気になる。余計なお世話だと思わない? 八五歳で死んだとしたら、老衰でいいじゃないの。みんなでお祝いだよ。もし自分に不可解なことが起こったとして、それがひどく苦痛だとする(図A)。たとえば、どうにもならない痛みとか、最愛の動物の死とか。そういう時に、生命体としての自己保存の機能が働き出す。ショックをやわらげる忘却の働きだとかいろいろね。しかし、それだけではどうにもうまくいかない。その偶然がなぜ自分にだけ起こったか説明がつかないからね。そんな時に、その非合理的な出来事がある種の因果性に基づいていると分かれば、ぼくらは納得できる。つまり、別の因果性の体系が存在しているということ(図B)。どうしようもない苦痛が、「ああ、ちょっと胃が荒れてますね。しばらく気をつけてください」と言われただけで、すっと楽になる。それと同じこと。この別の体系が存在するということを認めた時から、もう既に宗教に片足を突っ込んでいることになるのね。 ぼくらを支配する因果性の体系とは別の体系が存在する、ということを一万年以上かけて説明しようとしてきたのが宗教なんだから。 宇宙飛行士が地球から離れた途端に神様を信じるようになるのは、だから、当然と言えば当然すぎること。ナニナニ教は必要なくとも、やっぱり神様はいてもらったほうがいいんじゃないかなあ。(植島,2015)f:id:onenepnamunamu:20230403024932j:image

私はスピ系のものに対して植島さんの今回の宗教に対しての考えと似た考えを持っている
植島さんは、自力では処理できない物事を自分に落とし込むために、仮想の世界の因果律を引用することにより、自分の中によりストレスをなくした形で落とし込めるためものがスピだという考えだが、

私にとってもスピリチュアルなものが存在している、していないは正直かなりどうでも良く、自分をより理解するためのきっかけに過ぎない
一人で自分の長所を考えてもなかなかポンポン思いつくことはなかなかないが、友人と映った自分の写真を見ながらだったら幾分か思いつきやすくなる
同じようにタロットや占い、はたまた空想する時の宇宙の存在をどう感じるかは、自分が今どういう精神的な状態にいるか、より良い状態になるにはどうすれば良いか、何を欲しているのかをわかりやすく反映する
言ってしまえば理解しやすくするためのお助けカードのようなものだ
感情には流れがある、その無意識のめぐりに置いていかれてしまうと疲れたりストレスを感じたりする
なるべくその自己の脳内の循環の状態をより正確に把握するための道具、それがスピだと思っている
占いを見て、誰にでも当てはまってること言ってるだけじゃん、という人をよく見かけるが、占いは人を元気づけるための道具なので、大多数に元気になって欲しいテレビ占いがあるあるだらけなのは、そりゃそうやがなという感じ
いつか私のスピに関しての考えを書こうと思っていたし、良いきっかけが2つもあったので勢いよく日記に書いてしまった


最近、自分(me)のことを大切にしていない人との距離を積極的にとっている
仲良い風に見えても愚痴をいうための壁打ちとして扱ってくる人、私の友人やステータスが目的な人
そういう人間を排除し、友好関係の浄化を行なっていった結果、ちょっとヤバいくらい自分を形成する友人たちへの感謝が止まらなくなってしまった
みんなが好きなものをそれぞれ何か買って会いに行き、ひとりひとりに口頭で感謝を伝えたい感じ
今の私はあなたの存在のおかげですよ、と
ゆっくり伝えて回ろうと思います
身辺整理は本当に大切、身近な場所に不純なものを不必要に置いておくのは自傷行為に近いことのかもしれない
ポイ捨て程度の悪事はしてたとしても、真っ当に生きている人間だという自信がある人は自分の拒否反応を信じても良い気がする
無理に全ての人やものを愛そうとすると本当に疲弊してしまう
このワタクシが嫌なんだから、コイツは隠れた根性腐りに違いない!と、一見傍若無人なことをしちゃっても良いのです、ただの自衛なので
自分のヘイトを大切に


友人の作品無理の話したっけ?
まじで私は友達の音楽とか小説、詩とか絵を見ることができない、耐えられなくなってしまう
人は他人に相手を見て、自分の出したい感情を取捨選択し、その友人にあった情報のみを伝えコニュニケーションを取る
なので脳内をありったけ詰め込まれた友人の作品を見ると形成してきた友人の像がすでに存在しているがゆえに、違和感を持ってしまう
ゾワワ〜ーってなる、慌てて友人に話しかけると、いつも通りなのも余計ゾワワを産んでしまう
好きなアーティストが友人になる、逆パターンだとこの事象は起こらない
この前友人が地上波のラジオに出演していたが、自分でもびっくりするほど興味が持てなかった
DJではその人の脳内はほぼ見えないので余裕だが、ラップだと無理
そんな感じ、周知したいわけではないけど共感者は探しています、アーティストの友人各位に周知と牽制の意味を込めて書いちまった
チャオ⭐︎☆⭐︎⭐︎


引用文献
岡崎京子植島啓司(2015)『オカザキ・ジャーナル』平凡社