ゴーゴー!音々の精進日記!

とりま走ってるって感じの人生をイケてるランニング人生にしていきたいのである

来年の夏は海入るのかなあ

日常であっこれ日記に書こう!と思うタイミングがよくあるのだが
いざ家に帰って何を書こうと閃いたのか忘れていると、もう本当に悔しくて日記を書きたくなくなる
たまに一人でいる時はメモを残したりなんかしているが、友人といる時だとそうもできない
手から水がこぼれ落ちているような感じで、ステキな私のキラキラがぼたぼたと床に落ちていくのを感じる
以上、今回分の日記サボり言い訳でした


あなたが悪いわけではないのですが、あなたが当たり前だと思っているシステムや環境に欠陥があります、という内容を伝えるのがとても難しい
結果的に良くないことをしているのは当人ですよということを伝えたいことに変わりはないのだが、どうも売ってない喧嘩を買われることが多い
人はイラッとくると論理的にものを何も考えられないらしい
なんとなくイラッときただけで全てに反抗してやろうと会話中ヤケになる人が多すぎる
どうにかしてくれませんかね まあ話さなければ良いんだけど、そうもいかない


これは本当にたびたび言っていることだが、嫌いなものが一致している方が人間関係において、好きなものが一致している以上に大切だ
というか嫌いなものが完全一致していたら好きなものの趣味が一切合わなくてもなんら問題はないし、なんなら大親友になれると思う
一緒にいて地雷を踏まれる心配をする必要がないこと、同じポジションで話をできることはかなり人間関係において大切だ
初対面の人に好きな食べ物を聞くよりも嫌いな食べ物や駅を聞いた方が絶対に盛り上がるし、相手に対しての解像度も上がる
パートナーにおいても同じことが言えるはずだ
とにかく、悪口をツマミに飲む酒はウマい!


月一頻度で会ってた友人と3.4ヶ月ぶりに会った
会った瞬間から流れる空気が心地よく、あァこれこレ!!となった
うまく話せないが、気が良いとか 自分の核(コア)が〜とか話せることって私にとって大切だな、と思った
共通言語があり食や生活の文化の認識がある程度一致してないと会話はびっくりするほど成り立たない
音のソノリティ
私にとって言語化できない自分の中にある循環やそれに寄り添うためのアプローチはとても大切なので
こうした話を苦労せずに伝えられるのは本当にありがたいし楽しい
本当にしたい話を友人も欲しっていた時、あーーーー楽しっ となる


zenlyの消失で一つ気づいたことがある
SNSを含めて、友人や他人から自分の行動を見られることを前提として生きているなということ
遠いところに来ると、誰かzenlyで変なところいるなと見てくれてるかなーと思う癖がついていたようで
ハ となった
それを含めて、どこに行くかなにを食べるか にある程度携帯越しの他人のからの視線を感じてしまう気がする
そこまで日常をぽんぽこ載せるわけではないのに
感情を持つことにすらこの意識が入り込んだら、怖い
面白いと思っている自分 悲しんでいる自分 怒っている自分
感情がツイートの文面に置き換わり、いいねの数などのリアクションを考えながら自分の感情を感じていくのだろうなと容易に想像できる
人間はそもそも自分の行動に対し、相手がどう反応するのかある程度予想した上で発話したり行動したりするものなので
他人からの反応をなにも頭に入れないで行動することは不可能だが
SNSの利用で埋めれた不透明な”他人像”の反応を常に意識しながら行動することは あまりにも良くない
SNSの無意識を完璧に内面化する前に、どうにかせねば